■ ヒッピーとは何者だったのか?
1969年の夏の日以来、自分の人生の通奏低音のように流れていたヒッピーへの憧憬とは一体何だったのか?
『アイ・アム・ヒッピー』/ ( 山田塊也著 2013 ) という一冊の本に触発されて始まったヒッピー・ブログシリーズは、はからずも、私、ストレンジ・N にとって、「ヒッピーとは何だったのか?」を探す、いわば内なる旅の軌跡となった。
チョットおおげさ? かも知れないが、このくらい自分で盛り上げないと、ブログなんて長く書いてられナイ。何かを創造する時、ある種の思い込みは大事でアル。たとえそれが少々見当違いであってもだ。
昨年末のブログUP後、自分は、同じ日本のヒッピーを代表するもうひとりの重要人物、故・山尾三省氏の著作本のいくつかを読んだ。また、日本のビートニクの草分け、「部族」の中でも最もカリスマ性があったとされる、故・ナナオサカキ氏の貴重なインタビュー録にも目を通した。日本ヒッピーの軌跡を可能な限り多角的に再検証してみたかったからだ。
それらを経て見えてきた、2015年現在に於ける、日本ヒッピーへの自分の認識を、以下に備忘録的に纏めておきたい。あくまでも自分にとってのもの。’60年~’70年代音楽レビュー風に言えば、“極私的ヒッピー論”という感じか。ぽよよぉ〜ん。
■ ヒッピーは何をめざしたのか?
・物質経済の自然破壊への警鐘
・「部族」としてのコミューン運動
・非戦、非核、平和を生きる
・個人の魂の開放
・自己の神性の実現
・大地に帰る
■ ヒッピー・コミューンは、何故、解体して行ったのか?
・家族 vs. 共同体
家族と共同体との融合が上手くいかなかったのが原因。部族やコミューンは最初、若い独身者が多かった。だが、そのうちカップルが誕生し家族を形成して行った。家族を形成すると、家族だけのプライベートな時間を欲し、それと共同体とはうまく折り合わず、しだいに家族が共同体から抜けて行き、地元の部落会へと移行して行く。そのあたりで共同体が解体。それはすなわち、コミューン運動「部族」の精神的拠り所をなくすという、決定的な挫折を意味した。
「子持ち3家族が部落内に家を建てて住み、部落会のメンバーとなった。そしてここから「部族」全体の解体現象が始まったのである。(中略)「部族」の掲げた相互扶助、共同共生の論理によるコミューン主義が、ふたたび適者生存の論理、すなわち実力主義に逆転してしまうのだ。コミューンなら生活していけるけど、一人だけ、あるいはカップルだけでは自信がないという人間は、諏訪野瀬島には住めなくなるのである。」ー(『アイ・アム・ヒッピー』P119
、1972~73年回顧より)
「現実の「部族」そのものにおいては、自分達の思想が未熟であったし、技術といいますかね、共同生活の方法論や畑づくりひとつにしてもすべてのことが未熟で、形としては1970年代の初め、72年ぐらいを境に社会の表面からは消えていきました。」ー(『アニミズムという希望』/ (山尾三省著 2000)P63)
理念の違いとかではなく、わりと判りやすい原因で解体していったのはちょっと意外。
■ 大地に帰れ~自然への憧憬。
・東京・首都圏人の自然回帰願望
家族を形成し、その地に根づいて行ったヒッピーには、諏訪野瀬島で長沢哲夫(ナーガ)氏、屋久島で山尾三省氏(2001逝去)がいる。この御2人は、ナーガ氏が、東京都新宿区早稲田生まれ。山尾三省氏は東京都千代田区外神田生まれ。どちらも首都東京、都会のど真ん中で生まれ育っておられる。言わば都会っ子。
また、共に幼少の頃、地方への疎開経験がある。ナーガ氏は、岩手県紫波郡紫波町へ約4年間。山尾三省氏は、山口県油谷町[現・長門市]へ約5年間。この幼年期の疎開体験は、後年の人生に少なからず影響していると思われる。その記述を山尾三省氏の著作で見つける。
「自分がこんな生き方をするようになったのも、ひとつには幼い頃にこの半島で余りにも自然と密着した幸福な時を過ごしたせいだと思う」ー 『銀河系の断片』/ (山尾三省 堀越哲朗編 2009) P76「聖老人」より。
「ぼくがヒッピーになるきっかけとなったナンダとナーガをはじめ、「元部族」の男女四人組八名のうち、男四人はいずれも東京で生まれ育った東京人、女たちはも東京か首都圏の出身である(諏訪之瀬島入植者について)」ー(『アイ・アム・ヒッピー』P315 )注:( )内文章は筆者。
後年、アニミズムの詩人になられる御2人だが、東京人としての自然への憧憬は、地方出身者のそれより、何倍も強かったのでは? と勝手に想像する。
■ 世代の継承
・ヒッピー・第1世代
’60~’70年代のベトナム戦争反対、愛と自由と平和のヒッピーが第1世代だとすると、この世代を知ってるのは、1959年生まれまでが最後の世代。
「余談ながら、ニズ(仲間の愛称)もそうだが、無我利(奄美大島の拠点)のシフラやシキコなども同じ59年生まれであり、この年代までが、ヒッピー・ゼネレーションの最後尾にくっついている。そして60年代入ると、特殊な個人例を除けば、決定的に断絶してしまうのである。なぜか?60年生まれの若者たちから「共通一次試験」が開始されたのである。」ー(『アイ・アム・ヒッピー』
P233)注:( )内文章は筆者。
自分が1959年生まれなので、このことは良く判る。その通りだと思う。第1世代をリアルタイムで知ってるのは、自分の世代くらいが最後だと思う。
・ヒッピー・第2世代~現在
’90年代初頭~現在。音楽の野外レイブパーティ等の動きや、希望の見えない低成長管理社会に直感的にノーを唱える若者たちと共に、再びヒッピー・カルチャーが注目されてくる。この世代はインターネットを自在な武器とし、世界を軽々と遊歩する。そして第一世代の子供たち、ヒッピー・ジュニアが元気である。
■ ヒッピー・スピリットは終わったのか?
ヒッピーたちが何十年も前に予見した、自然環境は破壊され物質文明の極の時代を、今、自分たちは生きている。ヒッピー・スピリットはもう終わったのだろう か? 否、共同体はもう存在しないが、その精神は、環境問題、エコロジー活動、脱原発運動等に反映され生き続けている。
・コミューンからコミュニティーへ
「80年代はコミューンに代わって、一定期間内に個人や家族で入植したヨソ者フリークスが、相互扶助と共族感情をもってコミュニティーを形成するという方法が、全国的に定着してきた。」ー(『アイ・アム・ヒッピー』P310、1989年回顧より)
「ぼくはもう「部族」という呼び名にはこだわりませんが、その共同体性という精神と、自然を尊敬する生き方とは、1980年代以後の環境問題を核とする展開の 中で、社会的に最も重要な課題として普遍化されざるをえなくなってきました。この市場主義経済の中で、ぼく達の立場はいぜんとして少数派ではありますが、
今ではもう、「限られた地球に無限の発展はありえない」ことは小学生でも知ってるもうひとつの大きな枠組みとなりました。」ー(『アニミズムという希望』 / 山尾三省著(2000)P63~64)
内田ボブ氏が住む長野県大鹿村、ナーガ氏が住む諏訪野瀬島、山尾三省氏の志を継承した移住者が住む屋久島。その他、全国に“ゆるいコミューン”は、けっこう存在する。ボブ&ナーガ氏のコンサートを開くライブハウスやスペースは、そのツアースケジュールを見れば明白の通り全国に広がっている。ヒッピー・スピリットは21世紀ヴァージョンで継承されて行ってるのでは?と思う。
「魂の自由」「大地に還る」「自己の神性の実現」、3つのテーマを負って乗り出した「部族」という船は、今はこの世にない。けれどもそれは多くの知識人や政治家がヒッピーと呼んで侮り蔑み希んだように、時とともに風化して消えてしまったのではない。その精神は、ロック音楽が国分寺の裏通りの小さな店から始まっ
て日本中に浸透していったのとまったく同じく、「もうひとつの生き方」「地域という原理」「精神世界の復活」という姿をとって生き生きと現在も息づいてい る。ー『銀河系の断片』/ (山尾三省 堀越哲朗編 2009) P47「悲の器」より。
本日のご訪問有り難うございます。良い事がありますように!