家の屋根裏部屋を整理していたら、嬉シ恥ズカシ子供の頃読んだ本が出て来た。往時も今も、ちゃんとした本屋さんがない自分の町では、本は貴重品だった。風邪を引いて高熱に魘されてる時か、お正月とかでないと買ってもらえない。とりわけ外箱付きの本は高級品だったと思う。なので捨てずに取って置いた。それが出て来たのだ。懐かしい表紙、古書の匂い、一気に時空がワープする。
記憶を辿り、だいたい読んだ順に右から並べて見る。小学校高学年〜中学生になった頃までの少年期の本だ。題名をこうやって並べて見て思わず苦笑する。50代半ばになった今の自分の興味が、これらを読んだ12〜3才位と殆ど変わってないからだ。
ここで自分は喜ぶべきなのか? 悲しむべきなのか? やや微妙ではあるが、あの、誰もが知る名曲 ♪ “子供の頃、夢見たこと、今も同じ、夢に見てい〜る〜”、ということではないか? だとすれば、これはある意味幸せなことだ、と言えるハズだ。ラッキー!
そう、自分はかように、世界や宇宙の謎と不思議が大好き少年だった。ファーブルよろしく昆虫の観察フィールドワークは怠ることなく続けつつも、事件は放課後起きるという思い込みで、少年探偵よろしく知らないおじさんを尾行したり、森の奥へ、カーナボン卿よろしく古代人の洞窟遺構(このあたりはそういうのが多い地域なのである)を探検したり、シュリーマンよろしく河原で化石を探し、ジュラ紀に想いを馳せたり、星空を眺め、星座を読み、アンドロメダ星雲やプレアデス星団を仰ぎ、宇宙と時間と空間の謎について考察したりで、ストレンジ少年は日夜忙しい。なにせ、世界のセンス・オブ・ワンダーが、自分から発見されるのを待っているのだ。ワクワクする日々ではないか!
そんな具合いなので、その頃は「謎」とか「異次元」とか「空飛ぶ円盤」とか「古代遺跡」とか「アトランティス」とかの文字にはすぐさま反応していた。幸せな少年時代だったと思う。亡き親をはじめ諸々に感謝である。
自分のようなかつての不思議大好き少年も、大人になるといつしか、リストラや子供の教育費や不登校や来週の会議でのプレゼンテーションや週末の親の介護や月末のローンの支払い等に日々が追われて行き、宇宙の謎もクソもヘッタクレもあったもんじゃなくなる。「ぬゎ〜にが時間と空間の考察だぁ〜、そんなことより俺の時間を返せー、残業代払えー!」なのかも知れない。お気持ちは良く判る。残業代は適切な割増で支払われるべきだと自分も思う。
だけど、そういう中にも「不思議」と「神秘」と「奇跡」は日夜起きている。もし、それらに気付きたいのなら方法は簡単だ。それらを見ること、感じることを、ただ自分に許せば良いだけだ。あなたの意識があなたの体験したい世界を創造する。
「奇跡は誰にでも一度おきる
だがおきたことには誰も気がつかない」
–『わたしは真悟』梅図かずお –
▼ほぼ同時期に放映されたSF海外TVドラマ、火に油を注いだ!