福岡生活事始1986~
100217(水)遊星年代記[003] 1986年早春 福岡 箱崎
「Nさん遊びに来ませんか~、僕、今少しヒマなんですよ~」、掛かって来た電話は、福岡に住んでいる高校の時の同じ美術部の後輩、D君からの久し振りの便りだった。1986年が始まってまだ間もない頃だ。少し前に東京から戻って来た私は、田舎で悶々としていた時期だったので、そのお誘いは新鮮だった。福岡での生活を構想する気持ちもあって2月、二つ返事で遊びに行く。
D君は、九州が誇るQ大生で就職浪人中。福岡市東区の学生街、箱崎という所に住んでいた。街を実際に訪ねると、東京の山手線の内側、「目白」とか「雑司が谷」あたりを思わせる、歴史ある下町っぽい学生街と言うイメージだった。街の大きさがほどほどで可愛く古びた路地が多い。空港が近く、東京と比べると飛行機が飛んでいるものの、スゴく静かなことに最初驚いた。今思うと東京が五月蝿かったのだ。何が音源が判らないが、全体にゴゥ~っと言う低周波音が常時鳴り続けていたように思う。
ともかく私は、このお誘いを良い事にその後輩Dクンの所に暫く居候しながら福岡の街を探索し始めた。まず、住宅情報雑誌でアパート情報をチェック。これが驚いた。家賃が安い!東京と比べて!これも考えれば東京が異常に高過ぎるのだが…。とにかく嬉しい。
福岡という街は全然知らなかった。そのうち都市と田舎が程よく混在している事。海が直ぐ近くで、もの凄くきれいな砂浜が延々と続いていること。東京で一日がかりで行った湘南や千葉の海で見る灰色の砂浜とは全く違う、玄界灘の力強い海。サーフィンなどマリンスポーツも盛ん。そんな海に街中からホンの30分位で行けることや、支店経済の商業都市でありながら、「どんたく」や「山笠」など、下町的伝統的な祭りを大事にしていること等が判ってくる。
街に来ている若者も鹿児島、熊本など九州出身者が多い。実家からの距離も東京に比べればスゴく近い。長崎から東京はさすがに遠い。実家に何かあったとしても福岡なら直ぐ帰れる。これは心理的負担感がもの凄く軽くなる。そして何より街の雰囲気が明るい。みんなあまり物事を深く考えない(笑)。音楽が盛んなラテン系。こういった風土が判って来て俄然、私は魅力を感じて来た。
福岡で生活しよう! 私は情報誌で仕事を探し始めた。当時はまだ右肩上がりの経済幻想がまだあった頃。こちらは若いし、そう選ばなければ仕事がないという状況ではなかった。いくつかの面接をして採用が決まったのもあったのだが福岡以外の勤務だったりで、福岡で生活したい私はいまいち決まらず、当初の滞在予定も僅かになり、少し途方に暮れていた。
そういう時、D君が、知り合いの仕事場を軽い気持ちで紹介してくれた。そこは、駅近くの公団住宅の一室にある小さなデザインと出版をやるオフィスだった。一応絵が描けるという触れ込みで、そこのボスの雑談を交えた面接のようなもの受けた。何がどうなったか判らないが、とにかく流れで取り敢えずアルバイト採用が決まった。場所も通勤しやすい博多駅近くだったし、私は大きな会社で働くのは気が進まなかったので、あまり深く考えずこちらに決める。仕事もそうだが、何より福岡で生活することに嬉しさを感じていたのだ。
やがて、D君がいたアパート「ひまわり荘」2階の奥の部屋が空く事になり、そこへ入る事に決めた。6畳台所半畳。トイレ風呂無し1万6千円。こうやって住む所と仕事が一応決まる。ここからその後、21年間居る事になる福岡生活が始まったのだ。その切っ掛けは、他でもない後輩D君が作ってくれたのだった。
1986年。時代はこれからバブル期を迎えんとする頃、福岡の街中にも何やら熱気の渦の様なものがあった気がした。