友人が個展をヤリマス!

松竹司個展『大陸の肖像』in 東京/神楽坂!

11月25日(水)。本日は、友人の個展を紹介させて頂きます。友人は松竹司 (まつたけつかさ)と申します。小学校2年来の同級生です。

 

私が育ったこの長崎県北部の小さな町は、昭和の高度成長期に炭坑町として栄えました。昭和40年代当時には、近郊の町にもあちこちに小さな炭坑があり、その関係か、新学期や夏休みの終わりになると、町の一番いい場所にある歴史ある木造校舎の小学校には『風の又三郎』や『謎の転校生』が、ひっきりなしに現れては、いつの間にか去って行きました。

 

そういう光景を土地っ子である私は、たいてい日当りのいい窓側の席で、帆布のようなカーテンの間から見える、校庭の楠の木と空をぼんやり眺めつつ、やり過ごしていたように思います。

 

その、小柄な少年は、半ズボンと白いハイソックスという服装で、ある朝教室に登場しました。炭坑ではないのですがお父さんの仕事の都合でこの町やって来たようです。半ズボンはまだしも、その白いハイソックスは、昭和40年代前半、ここいらの餓鬼のような子供たちには、ちょっとしたカルチャーショックでした。なので私は良く覚えているわけデス。

 

その半ズボン主義絶対少年は、その後、昆虫が擬態するように、クラスの中間部に目立つことなく自分の位置を決め、ひまさえあればひたすら、お絵描きノートに当時のアニメ、『ロボタン(森田拳次原作)』や『パーマン(藤子不二雄原作)』等を実に巧みにドローイングするマンガ少年でありました。

 

その才能の萌芽はその後、教科書の端で作成された驚異的な長編パラパラアニメや、自費制作超豆本等に、すでに垣間見られるのですが、それら単なるマンガに留まらず、絵画、デザイン、立体、オブジェ作品等に現出し、ひらめきを巧みにカタチにする無敵の美術少年!となっていくのでした。そのパースペクティヴの彼方に…、今の彼が位置します。

 

…あれはもうすぐ私たちが、30才にならんとする頃でしょうか?、いつも忘れた頃に飛来する彼の葉書には、『突然ですが、世界旅行に出かけます!しばらくイラストの仕事お休みします。』とかいう内容の印刷文字が! それから彼の手紙が、中国から、インドから、あるいはノルウェーだったか?、沢山のスタンプを経由して、私の小さなアパートの集合ポストに届きました。

 

長い間、互いに「手紙やりとり遊び」をしてるうちに、私も彼もいい年になりました。そういえば昔っから私どもは、退屈な授業中の「手まぜ」が大好きだったのでありマス。

 

私の知らない国の、知らない街角、知らない匂い、知らない空の色、知らない風、知らない躍動…。ちっぼけな西の果ての町から世界の果てを見て来た彼、松竹司クンの内なる大陸では、今もそれらが微熱を帯び渦を巻き、砂塵を立ち上げているのでしょう。

 

         松竹司 : http://homepage.mac.com/tsukasa6/m/index.html

 

 

 

 

 

 

 

 

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コメント: 8
  • #1

    ラフィキ (木曜日, 26 11月 2009 20:52)

    上京する時間と会えばいいなあと思って、調べてみましたが・・残念でした。しかし、友達に紹介しておこうと思っています。何時も芸術的な所を見歩いている友です。
    何かお金持ちのおぼちゃまなのかな・・・。神楽坂での旅館・・。何時か覗いてみたいですね。前、勤めていた所から近いような気がします。
    ご紹介有り難うございました。

  • #2

    planetary-n (木曜日, 26 11月 2009 22:08)

    ラフィキさん、いつもコメントまことにありがとうございます。

    長年つき合って来ているので、その立場から言わせて頂くと、彼は育ちはいいですが、決してお金持ちのおぼっちゃまではありません。そもそも私が育った町にお金持ちはまずいなかったと思います。

    元は、絵とは関係ない会社に就職していたのですが、アートの夢が彼を突き動かし、自力でデザイン学校へ、そこからデザイン会社に就職。胃潰瘍になるくらいハードなワークをこなしながら実力を蓄え、やがてフリーランスに。時はバブルの頃でしたので、元来律儀に仕事をなす彼は、気付くとお金に少し余裕が出来たのでしょう。おりしもちょうど30才前、20代であるうちに、沢木耕太郎著『深夜特急』などに昔からずっと憧れ続けていた彼は、夢に見た海外への旅に決断。その、胃潰瘍になるくらいハードにやった20代へのプレゼントとして、自費で行って来た訳です。バブルのお金としては健全な使い方ではなかろうかと、少なくとも私は思います。

    彼のホームページを見て頂ければお判りのように、その後もずっと、企業の沢山の依頼仕事をこなしつつも、それとは別に純粋な創作意欲があり、このような作品に結晶化されているわけです。その作業の一部は国内で最も定評ある専門雑誌『イラストレーション』(玄光社)に以前紹介されました。

  • #3

    planetary-n (木曜日, 26 11月 2009 22:14)

    ウェーブ (木曜日, 26 11月 2009 21:23)
    ウェーブさんの最初のコメントは「松竹君」が「竹松君」になってましたので、訂正し再掲しました。
     
    松竹君元気で頑張っているんだね。もしかしたら個展
冷やかしてみます。数年前今は亡きS子などと神楽坂の
個展を訪ねたことが思い出されました。彼は土地の人では
なかったのですか。初めて知りました。

  • #4

    planetary-n (木曜日, 26 11月 2009 22:21)

    ウェーブさん、コメントありがとうございます。
    お久しぶりです!お変わりありませんか?

    彼はこの町の生まれではないです(長崎県内ですが)が、それからずっとこの町に住んでおられます。
    個展、是非また行ってやって下さい。喜ぶと思います。

  • #5

    sasa (土曜日, 28 11月 2009 01:41)

    ナニカヨウデスカ‥‘謎の転校生’に成りそこなった松竹です。個展のご案内どうもありがとうございます。生い立ちまでも恐縮です。忙しない時期ですがお時間ございましたらぜひお越し下さい。お待ちしております。
    ご紹介され蘇った記憶によると実際は2年の1学期にはこの町に引っ越してきて夏休みが明けるのを待って転入しました。数ヶ月の間以前いた隣町に通学しながら時々N氏のいる学校を偵察にきてました。なんかプールもないし、ウサギいるし、蛇口からレモン石けん下がってるしスゲ〜校舎などと思いながら‥ちなみに一族は島原半島の付根I市です。

  • #6

    planetary-n (土曜日, 28 11月 2009 02:10)

    松竹君、御多忙中コメントありがとうございます! 個展の成功を心からお祈り致します。既に完成の域にあるこの亜細亜的画風のこと等を書いても良かったのですが、それは、あまたの批評家の方に任せて、小学からの同郷生にしか書けないところで御紹介させて頂きました。失礼があったらお許しあれ。



    東京が少し遠くなりましたが、また機会ある時は、例によって、身内の所から自転車で遊びに行きます。帰省された時は、こちらは相変わらずですが、お立寄り下さい。

  • #7

    ウェーブ (日曜日, 20 12月 2009 17:36)

     19日Y子と一緒に訪ねてみました。ちょうど松竹さん
    がいて、ゆっくり話ができ、携帯で写真などもとりあいまし
    た。元気そうで、絵の方も以前より少ししっかりしてきた
    ような感じがしましたね。この厳しいなかで、よく絵だけで
    食っていけるものだと、その勇気に脱帽です。やはり勇気
    というものは、生きる上でかなり重要なものですね。最近
    少しばかりの勇気が足りなかったばかりに、苦境に陥った
    経験があり、つくづくその感を強くしています。この
    滅茶苦茶な世界を生きていくには、勇気だけが味方では
    ないだろうか。

  • #8

    planetary-n (火曜日, 22 12月 2009 19:40)

    ウェーブさんコメントありがとうございます。
    松竹クンの個展、行って頂き、まことにありがとございます。
    …そうですね。この滅茶苦茶な世界で、人は何の羅針盤を頼りに生きるのでしょうね。勇気は確かに大きな味方かもしれませんね。

    勇気…、その言葉を知っていながら、久しく使う当事者になってない気がします。「勇気」は何故「ゆうき」というのでしょう?。勇気という言葉を呟いてみると、その言葉そのものに勇気が湧いて来る力がある気がします。この世に滞在中、勇気をもっと身近に感じて生きてみたいですね。