草刈りシーズン到来。
5月8日(金)気候が良くなり、新緑が美しくなるということは、当然、惑星を覆う草も元気に伸びて来るということ。基本的に必要性がなければ、草は刈らない。草刈り機の燃料代のこともあるし。草について、『半農半X 』というコンセプトの生みの親である、塩見直記氏より、昨年直接聞いた話によると、今地球上に緑豊かな草が生える国は日本を入れてほんの数カ国しかないそうだ。(じゃ、後の国は?と問われると未調査。ごめんなさい)。惑星地球規模では砂漠化進んでいることはご存知の通り。緑の惑星が『砂の惑星デューン』(SF映画)に変わりつつある。
どうしても、という所だけ草を刈る。家前の農道は私の家の土地にあり、しょっちゅう通るので、刈っておかないと、伸びすぎた髪の毛のようでどうも落ち着かない。美しくないのだ。少なくとも自分が住んでいる回り位はきれいにしたい。ではそのためだけに刈るのか?自分で刈りながら、刈るためのちゃんとした理由を自分で確認しておきたいのだが…。
刈らないと、人間にとっての害虫の住処になるのは確か。しかしそれもあるが、つまるところ、日本人の美意識のDNA がそうさせてるのではないかと最近は思っている。やはり、日本の原風景として、田舎の田んぼの畦道はきれいに手入れされ続けていた。その時のその無名の農家の方のお陰で原風景は保たれていたわけだ。その人は何故その畦道をそうしたのだろう?たぶんきっとこんな答えが帰って来たに違いない。『…え?何ば言よっとね。田の畦や畦道、草刈るたぁ〜あたりまえたい』。
この道は私の家の土地エリアにある。ということは、この惑星地球上で、基本、私しか、この道を管理する人はいない。(老齢の母親と2人暮らしなので)。この道の植物たちの運命は私に委ねられてるとい言っても過言ではない。大げさかもしれないが、地球の一部の管理をまかされているという気がする。それは、見方を変えれば自分の存在理由がハッキリある、ということでもある。この感覚は悪くない。
何故ならば、世間で行なわれているたいていの仕事、中でも私が永年携わって来た非正規雇用形態の仕事は、人が交換可能な世界だ。別に私でなくてもいい。名前もあまり必要ない。「アンタのかわりはいっくらでもいるんだゼ」の世界。労働というか、資本の論理は、自分の存在理由を希薄にさせ、存在価値、自己重要度を、少しずつ削っていくシステムだ。この論理以外の、オルタナティヴな存在理由を自ら見いだし、理論武装して行かないと、大抵の人は、この社会システムで荒んで行くことになる。(この事はまた機会改めて)
少なくとも田舎の作業は交換不可能なものが多い。「○○さんちの元気人参!」とかね。それはたぶん、そうでないよりは、幸せ感があるハズ、だと思っている。
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ラフィキ (水曜日, 22 7月 2009 17:35)
草刈りですか。何で難しいことを考えるのかな。爺は種をこぼしたくないから・・。と言いながら、ここ10年間勤めていて草取りしなかったから、10年間以上分の草の種は土壌に保存されているように思える。しかし、疲れる仕事だよね。生産品は買いたたかれるし、売らないと飯食えないしね。余計なことに回想が進みました。ごめんなさい。
planetary-n (水曜日, 22 7月 2009 23:52)
ラフィキさん、ありがとうございます。そうか、種がそれ以上増えないようにかぁ〜、確かにそうですね。出来ることなら、その作業をやらないで済む理由を私は無意識に探していたのだと思います。本来はナマケモノですので。お陰さまで理由がしっかり見つかりました。やるしかないですね。(笑)