2014 夏旅回想1~旅のはじまり


今年8月の終わりに1週間程旅をした。
備忘録の意味も込めて回想しておきたい。

             
ご存知のように天候不順の夏だった。広島の崖崩れがあったばかりの時期で、旅先の天気も大いに心配。不在中の自宅裏山も心配。「こんな時期に普通、旅に行くかぁ~?」「えい、ままよ!」運まかせの旅だった。幸いにも日頃の行いが良い自分は、そんな中でも天気に恵まれ、事故もなく無事に旅から帰って来れた。不在中の自宅も無事だった。急に思いついたにしては「良く行って来れたなぁ~」と振り返って思う。改めて見えないモノに、ひたすら、ひたすら感謝の気持ちである。


           旅のはじまり


発端は、ほんのフトした思いからだった。

2年前の夏に日本縦断の旅をした。その時お世話になった奈良の知人のことを、フト思い出した。そういえば暫くご無沙汰してることに気付き、暑中見舞いがてらのメールを送った。未だ梅雨が明けない7月中頃だったと思う。

すると「また遊びに来ませんか?高野山でも行きましょう」という、自分にとっては実に誘惑的な嬉しいメールを頂いた。「えっ高野山! 高野山と言えば世界遺産 ! そして、あの空海が開いた日本一?の聖地デハナイカ!」…

4年前、四国八十八箇所遍路巡礼に突然誘われ、また伊豆大島に呼ばれ、「御神火」三原山や、「行者窟」という、役の行者(役小角 えんのおずの)ゆかりの、不思議な大洞窟内の聖地を訪れる機会があった。(今思えば、母なる子宮のようなその奥の祭壇を参拝した後、自分は何かのスイッチが入ったのかもしれない。後で調べると「死と再生」の聖地だったようだ。)

 

旅から戻った自分はその後、日本の聖地と言われるものに何故か興味が湧いて来て、聖地と呼ばれる場所の謎、謎の修行者である役の行者、役の行者が開祖とされる山岳修験道、そして修験道の先にある古神道…、そういうものを、時間があれば調べ、なんとなく思いを馳せることが多かった。

高野山は、空海が開いた四国八十八箇所の長い遍路を結願した巡礼者が、それぞれの思いと共に、御礼参りとして最後に訪れる特別な聖地である。四国遍路巡礼半ばの自分なぞ、まだ行くべきではないのでは? そういう思いがないでもない。が、誘われたなら誘われたなりの意味があるのだろう。

…「人生誘われるうちが花」「やらずに後悔よりやって後悔」を常日頃から旨とする自分としては、これは行くしかない。喜んで返事し、すぐに旅の全体を計画し始めた。思い立つと行動は早い。期日はお盆後の8月末~9月初めに決める。この時期が地域行事もなく、近所にも迷惑がなく都合が良いからだ。そして2年前の旅と同じ移動手段、青春18切符(有効期限~9月10日まで)を利用することにした。

知人の居る奈良、そして高野山、それに加え、どうせなら帰りに、岡山から普段中々行く機会のない山陰側へ抜け、昨年60年ぶりに平成の大遷宮を終えた出雲大社参拝を、オプショナルとしてセットした。出雲市のネットカフェや、同じ島根県の津和野の友人宅を巻き込めば、旅は可能になりそうだ。 かくして「2014夏、聖地巡礼の旅」が、にわかに現実味を帯びて来た。

8月になっても一向に夏雲の見えない日が続く。が、自分はひまを見ては、高野山、出雲大社について、ウェブはもとより市や隣町の図書館から資料を借り下調べし始めた。どちらも日本を代表する聖地で奥深い。おりしも高野山は、来年で開創1200年を迎える記念の時期だそうで、注目されてることも判った。行くとなると、まず、その地を一大聖地に開山した空海という人から押えなくてはならない。


           空海の彼方へ


自分の人生で、空海について調べる時があるなんて、これまで思いもよらなかった。それには大きく2つの理由がある。


1、日本の歴史モノが苦手

空海と言えば、『空海の風景』という本を出した司馬遼太郎が有名である。しかしながら自分は、この司馬遼太郎や池波正太郎等に代表される、日本の歴史小説というジャンヌが苦手。全く興味がないのだ。読書は好きだが、これまでこの手あいを全く読んだことがない。

特にこの人が得意とする、戦国、幕末、明治の時代に、全くと言って良い程興味がない。城の権力争いや、戦いの策略がどうのこうのとか、国盗りの領土勢力争いなどに興味がないのだ。そういうのは、そういうのが好きな人が勝手にやってくれ、知ったこっちゃ~ない、という感じ。たぶん自分の中に、そういう権力志向と言うものがないせいだと思う。無くて良いと思ってる。無い自分が好きである。あはは。

また、これは歴史、特に中国の戦国の歴史が好きだった亡き父への反動も影響してると思う。父は孔子や荘子、韓非子や孟子など、中国の思想家が大好きだったのだ。前世中国人だったのかも知れない。良くある話だが若い頃の自分は、そういう父が全く好きでなかった。その思いが父亡き今も残滓となってるのだろうとも分析する。

シュメール文明、デルフィの神託、グノーシス、ナグ・ハマディ文書、エメラルド・タブレット、ヘルメス学、ドゴン族、生命の樹、 ザイスの学徒、薔薇十字団、あるいは、竹内文書、カタカムナ文明、日月神示、先代旧事本紀、古神道…、等の言葉には凄く好反応する自分なのだが、

「信長に学ぶ経営戦略云々…」「秀吉に見る人脈発掘の云々…」など、昭和の時代の書店の平積みに良く見かけたビジネス書を連想させるその手の本は、自分には一生縁がない(なくて結構 )世界だと思っていた。 また空海には、松岡正剛の『空海の夢』という本も有名なのだが、こちらも未読だ。


2、超人空海に及び腰

弘法大師の名で日本人には親しまれてる空海だが、日本に空海以上のスーパースターが実在しただろうか? そのあまりにも超人的な生き様と伝説化した逸話は、率直に言えばカッコ良過ぎる。なんだか取りつく島もない感じだ。思わず「凄い空海 v.s.しょうもない自分」という自己卑下する構図が出来上り、そこから抜け出せない。誰かが何処か、ちょっとでもダメな空海像を描いてくれたら、「あはは、なぁ~んだ、空海もそういうとこあったんだぁ~」なんて、ちょっと身近に感じられるのだが(笑)、そういうところが見事に、ない。そのせいもあって、空海は敬遠していたのだと思う。


         「空海的なるもの」            


 

しかし、矛盾してる感じもするのだが、いつの頃からか自分は、言わば「空海的なるもの」への縁へ、知らず知らずじんわり近づいて行ってた。霊性に目醒めたと言えばカッコ良過ぎるかもだが、30才頃から自分は、それまで興味を持っていた世界が、ある意味、臨界値に達し、例えるとコップ一杯になったので、ざぁ~っと捨てた。

すると、その空っぽになった空間に、それまで興味あった分野の、言わば隣町にあった「精神世界」が、一気になだれ込んで来た。そして砂に沁み入る水のように自分の内部に入っていった。その頃、意識の地平線が変わった感じがする。より広い視野で物事を見れるようになり、「ああ、ここに来る為にこれまでがあったのだ…」と自分は初めて、それまで混沌としていた自分の人生に、ある潮流を見つけ、妙に納得したものだった。

その頃、知人の紹介で空海が開祖した真言密教のお坊さんと会った。このお坊さんとはご縁があったのか、その後、お亡くなりになるまで何度となく会うことになり、会うたびに色々な話を聞かせて頂いた。(このことはまた別の機会に書きたい)北大路欣也主演の映画『空海』も、どういう経緯が忘れたが、その頃観た。

その後、自分の廻りは気付くとスピリチュアルな友人ばかりになり、’90年代はその友人たちと、大分の宇佐神宮、その奥の院や、熊本阿蘇の幣立神宮へ何度か参拝、また、別の知人からも誘われて、宮崎の天の岩戸神社、高千穂神社へ参拝。あるいは阿蘇の巨石遺構「押し戸岩」、あるいは太宰府の修験道の霊峰、宝満山へ。また九州最古の寺、武蔵寺がある天拝山に至っては何度も足を運ぶ機会に恵まれた。今思うと、その頃から知らず知らずに聖地巡礼のようなものを始めていたのかもしれない。

そして2007年、生まれて初めて四国へ行った。亡き母が未だ元気な頃で、母の幼少の頃の病気の御礼参りとしての讃岐の金刀比羅宮参拝、そのお供としてだった。金刀比羅宮は奥の院まで行った。その頃、たまたま香川県の友人がいて手紙で交流していたので、金刀比羅宮以外の近郊でお勧めの場所ありますか?と訪ねると、躊躇うことなく「善通寺」という所を、有り難くも多数の資料と共に勧めて頂いた。

「善通寺」は、四国八十八箇所第75番礼所。弘法太師、空海の誕生地である。梅雨の合間の穏やかな晴れの日に、母と2人で広い境内をゆっくりと参拝したのを昨日の事のように覚えている。

この時、自分は初めて四国という土地の風土を感じていた。それは、九州や関東等のそれとは全く違うもので少なからず驚いた。敢えて言葉にすれば、いにしえの懐かしい日本の風土、というものだった。

現在の九州北部などの街道沿いは、派手なパチンコ屋や中古車販売やチェーン店の郊外レストランやラブホテル等が無節操に乱立してる風景だし、それは、物質経済消費大国日本の、今日の典型的な郊外を普通に表しているにすぎないと思うが、そういう派手な広告や建物等が四国には殆ど見当たらない。(少なくともその時の香川県ではそうだった。今もたぶんそうだと思う。)もっと奥ゆかしく落ち着いていて、なんというか…この世と冥界が地続きで存在してるような気配が、そこここに漂っている感じだ。

昔人々は、そういう気配を身近に感じて暮らしていたはず。それが残っている感じなのだ。そして人々はホスピタル精神に満ちていた。これは四国遍路という、空海が四国中に仕掛けた霊場の巡礼者をもてなす「接待」という、伝統の配慮からなのだと、後になって気付く。

2008年には伊勢神宮へ行く機会に恵まれた。東京に用事があった帰りで、初めての青春18切符で行った。伊勢神宮は2回目だが1人で行ったのは初めて。外宮も内宮もしっかり参拝した。

内宮を参拝する正面は、白いのれんのようなもので覆われていて、通常その向こう側は見えないようになっている。偶然なのかどうか判らないが、自分を含め、たまたま居合わせた人たち横並び3、4人が同時に参拝した時、その白い大きなのれんのようなものが、ゆっくりと全部手前に板のように舞い上がりめくれて、通常見れないその向こう側の景色が見えた。

 

あっけに取られ、参拝しながらしばし茫然としていたら、のれんはゆっくり降りてまた再び見えなくなった。めくれ上がったのは自分たちが参拝した時だけだった。あれは何だったのだろう? 判らないけど、何か見えない配慮と包まれるようなメッセージを感じ、畏怖と感謝の気持ちをひしと感じた。

それから3年後の2010年夏、意外な流れで四国八十八箇所前半の巡礼の旅に誘われる。そして2014年夏、高野山に誘われる。


気のせいかも知れないが、ざっと、これまでの人生を振り返ると、けっこう自分ってば、それなりに、言わば「空海的なるもの」への縁が、伏線のようにあったのではないか? 強烈にという程ではないが、少なくとも自己卑下する必要はない程度には、あるのではと思ってる。確かに空海は凄い。でも自分は自分で素晴らしい。自己卑下は自分の魂に対して失礼だと、最近はそう思うようになった。

発端は、ほんのフトした思いからだった。

そのフトした思いは、何故その時湧いて来たのだろう? そもそも思いは何処から湧いて来たの? 伏線のような縁(えにし)は自分を何処へ運ぼうとしてるのか? う~んワカラナイ…。世界や人生は謎だらけだ。謎のままでも良いのだが、解けると面白そう。

 

遍路以来、久し振りにあの真言を思い出した。

「南無太師遍照金剛」いざ、旅へ。

高野山は、手頃なガイドブック(宝島社 2014.3月 発行)が出ていた。感謝! 下は出雲市の観光協会のパンフ。
高野山は、手頃なガイドブック(宝島社 2014.3月 発行)が出ていた。感謝! 下は出雲市の観光協会のパンフ。

 

 

 

本日のご訪問有り難うございます。良い事がありますように!

 

 

    前へ                 次へ