お彼岸2011秋

彼岸雑感。

          

           色は匂へど 散りぬるを  我が世誰そ 常ならむ

           有為の奥山 今日越えて  浅き夢見じ 酔ひもせず

 

          

           有漏地より無漏地に帰る一休み
  

     雨降らば降れ風吹かば吹け

 

 

         「わたしは世界の果てからネクタイを取り換えにやってきた」

 

 

 

110923(金)秋分の日 彼岸の中日 畑を耕耘した後、家前の彼岸花を画像に収めた。恐れ多いが藤原新也氏の『メメント・モリ』っぽく、画像を少し加工して見た。実際の色あいより少し強くコバルトがかっている。彼岸に咲く花はこんな風に鮮やかなのかもしれないと思ったからだ。

 

加えてお彼岸に相応しそうなのを、数少なき知ってる中から。

最初のは、もともと『夜叉説半偈(やしゃせつはんげ)』というお経の翻訳なのだそう。ご存知の方も多いと思う、芥川賞作家で臨済宗僧侶でもある玄侑宗久氏の、著作『まわりみち極楽論』(2003年)P129で知った。氏のお寺は福島県にある。(東日本大震災復興構想会議委員)

 

次のは、一休禅師の名前の由来となった道歌(宗教的、道徳的な教訓が簡潔に判り易く歌われている短歌のこと)。因みに有漏地とは現世のこと。無漏地とは苦しみのない世界 ≒ 彼岸のことでは?と自分は思っている。

 

最後のは、日本文学界の流れとは全く位相が違う場所で独り光芒を放つ巨星、タルホ・イナガキ翁が一番好きだった言葉。決然としたものがある。

 

これらや、その他の広義精神世界文献等を鑑み、誤解を恐れずに言い切ってしまえば、この世はアウェイ、彼岸が元々のホームなのだと思う。私共は彼岸からこちら側へ、「人間」という経験をしにやって来たのだ。この惑星地球3次元は経験の場所であって元々の故郷ではない。もっと言ってしまえば、私共は「人間」という経験をしている霊的な?存在なのだ。

 

ああ、こんなことを言い切ってしまって大丈夫なのだろうか? いいさ、もともと変なヤツだし…。見てる人が、引いていく音が聞こえるようだ。

 

 

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