今年も村人総出で作る。

伝統行事『締め打ち』〜 古老の思い。

101205(日)晴れ 昨日は地域伝統行事、『締め打ち』の日、『締め打ち』とは、地域に複数点在する聖域の結界である注連縄を作る作業の事である。毎年12月の最初の日曜日に村人各戸から一人ずつ総出で行う。

橋口稲荷神社内で、皆で手分けして作業を行う。
橋口稲荷神社内で、皆で手分けして作業を行う。
神社の境内は銀杏の葉で一杯だ。
神社の境内は銀杏の葉で一杯だ。

今年はこのHPでも何度となく 書いて来たが、「肝入り」という、村の行事の一切をお世話する係の年回りなので、早朝一番早く、その作業の場所である橋口稲荷神社へ行き、持ってる鍵で神社を開ける。

 

それから境内は、天気良いのだが山陰で寒いので、暖をとれる

「〆の子」の取り付け方を教えて頂く。
「〆の子」の取り付け方を教えて頂く。

よう焚き火を起こす。そして、 あたり一面の銀杏の葉を掃き出す作業をやる。どのくらいの締め縄を何本、何処に設置するのかは、昨年の同じブログを、参照して頂けると嬉しい。

 

今年は私も経験3年目、ホンの少しだけ、冷静に観察出来る余裕があり、今年大きな縄を作る時は、2年前の様に手の皮が剥け血だらけになることもなく、要領を掴みやり抜く事が出来た。そもそも最初の時が判らず、力みすぎていたのが今となっては判る。

 

一人が根元を持った2つの藁束を、もう2人でそれぞれ時計回りにねじりつつ、その2つを反時計回りにお互い交換しながら縄を綯って行く…その縄に「人形」と呼ばれる小さな藁束を段々多く藁縄の中に編み込むそうすると藁縄の直径が大きくなり、また自然と少なくしていく、そうすることによって真ん中が大きくなった注連縄が出来るのである。

 

文章で書くとチンプンカンプンだと思う。私も書いていて、これでは判らないだろう…と思いながらも書いた。(スミマセン)本気で知りたい方には、また別の方法でお教えします。お問い合わせ下さい。

今年も何とか出来上がった。
今年も何とか出来上がった。

締め縄から下に下がっている部分=「〆の子」と呼ばれる部分を取り付ける為にこれまた小さく綯った縄で結ぶのだが、その結び目の部分は「俵結び」という独特の結び方。

 

今年は、この部分の結び方を経験豊かな地域のご年配の方から丁寧に教えて頂く機会があった。実に有り難い事だ。しかし何度も目の前にやって頂くのだが、それでも良く判らない難しい結び方で参った。右利きと左利きとでも違って来て、結び方というのは結構奥深いのである。そうこうしているうちに今年もようやく、全ての注連縄が出来上がり何よりであった。

 

古老の見事な縄綯い。
古老の見事な縄綯い。

 古老にとっての伝統行事

 

注連縄を留めるのも、小さな縄がいる。その縄はここで藁から綯って作るのである。この「藁で縄を綯う」という作業ほど、現代人から遠い作業もないのではと思う。まず、藁を実際に手にする機会が ないし、今はナイロン製のヒモも各種ある。

 

私どもの村の、この締め打ちの作業でも、縄を綯える人は長老を始め極一部の古老しかいない。古老たちは心良く若い人に教えてくれるのだが、教えてもらっても要領を掴むまではかなりの時間を要する。

 

「縄が綯えないので、この伝統行事を今後続ける事がむずかしい…」と村の比較的若い人たちがぼやくと、古老のお一人が「よかたい、もうやらなくても〜」と、意外にも結構あっさりおっしゃられる。それは、出来ない若い人を皮肉で言ったのではなく、本当に、もう、やれなくなったからやらなくてもいいたい、と…、そこには若い人たちが仕事に多忙でそれとの兼ね合いが大変なことも十分知っておられる配慮と、また古老も何処か長年の風習にいささか倦んでおられるような気配を私は感じた。

 

通常だと、是非とも伝統に固執する古老、改革を企む若者という、それこそ「伝統的な」構図がありそうなのだが、実際のリアルなところ、全てがそうでもないのが意外で面白い所だ。「えっええ〜古老、そ、そんなに簡単に伝統なくしちゃってよろしいのですかぁ〜」と、若い私たちが、逆に保守的だったりして…いやはやである。これは脚色ではなく本当の話。

 

今週の土曜日には、再び『御神祭りと言って『平戸神楽という神楽の神社奉納の伝統行事があるのだが、古老曰く「平戸神楽も、もう〜見飽きたバイ」だそうである。この地域で長年過ごして来られた古老がおっしゃられるのだから、言葉にもある種、説得性がある。思わず皆、失笑する。

 

…確かにここで生まれ育って一歩も外へ出ずに此の地で70年も80年も生きて来られ、毎年毎年同じものを見て来られると、そう思うのかのしれない…と思ったりする。その歯に衣を着せぬ発言が何処か新鮮痛快でもあった。

 

およそ都市からの田舎への眼差しでは、伝統が受け継がれていくことの大切さが、当事者ではない輩から熱く発言されて喧しい。形骸し消滅寸前のその地方の風習に対し、その貴重な伝統の保護と再認識云々…とおきまりの編集意図でメディアでも報道されたりするのだが、当のネイティブな古老は、もう飽き飽きしてたりするのだ。

 

そういう報道はいまだかって何処にもなかったのではと思う。もしかして、この私のブログが全国発かも!(笑)こういう事に気づかせて頂けただけでも、肝入り一年やってて良かったと思う。

 

田舎、そして村落共同体などと縁のない、日本の殆どの人たちにとっては、地域の伝統的神楽は、機会があれば見てみたい、だけど、そういう機会もない…というのが正直なところだと思う。それと、それらに「もう飽き飽きした」という当事者である古老との、この意識のギャップ。この事実が何ともどうにもいやはやでありマシタ!

 

本日もご訪問して頂きありがとうございます。良い事がありますように!

 

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