41番札所[龍光寺] ~ 45番札所[岩屋寺]

聖地巡礼 最終日 ~ 四国遍路覚書10

 

             遍路最後の夜
 

 

100828(土)晴れ 昨晩、遍路最後の夜を迎えるのは、愛媛県宇和島市だった。夕食の買い出しのスーパーを探すも中々見当たらない。郊外に巨大スーパーがある所もあれば全くないところもある。宇和島は、スーパーの代わりにたこ焼き屋さんと郊外書店が何故か目立った。大きなのがあり地方にしては珍しいなと思っていた。『坊ちゃん』の夏目漱石の影響か? 全体に古い町並みの気配だった。

地元の方に聞いたりして何とかスーパーを見つけ、食料を調達し、道の駅「みま」へ、その辺りにある頃合いの台でテーブルを作り最後の宴を始める。今夜は「遍路最後の夜」というで、アルコールも少し進む。夜更けにはRさんがご自分のこれまでの人生を私に話してくれた。私はそれをずっと聞いていたように思う。それはスケールが大きいしっかりした人生の話で、私にはただただ眩しいばかりだった。

8月の最後の週末の夜、地元の何処へも行き場がなさそうな少年少女が、夏の最後の夜を過ごそうと、私たちのもとへそろりとやって来る。何やらアヤシイが楽しそうに宴をやってる私たちが気になったのだろう。「何やってるんですか~」「旅してるのさ~、コーヒー飲むかぁ~」そう言ってR親父は彼等に小さなカップでコーヒーをふるまう。こういう時のR親父の対応は天才的に上手い。あっと言う間にイタイケな少年少女たちを手なずける。

聞くと、近くの子たちで、年は20才位だったと思う。R親父は大きなしっかりした声で彼等に一言。「人生を楽しむんだよ~」「はぁ~い、コーヒー、どうも、ありがとうございました!」全ては一期一会。愛媛の若者よ!この混迷の時代を元気で! もうすぐ夏も終わる。見上げる満天の空には、既に秋の星座が上って来ていた。

                
               最終日


四国八十八ヶ所お遍路前半編、その最後の日、最も印象に残ったのは、44番、大寶寺、そして最後の札所、45番、岩屋寺だ。43番、明石寺からは、約80kmも離れていて2時間かかる。(後で知ったが途中には作家、大江健三郎の生家のある町近くも通る)どちらも標高600~800mの高原にある。中でも岩屋寺は標高700mの切り立った断崖の中腹にへばりつくように在り、駐車場から境内まで徒歩で30分以上急な坂を登らないと辿りつかない。四国霊場屈指の山岳霊場だった。


45番を今回の最後と決めたのは、ここまで参拝してると、次は松山市内の寺から始まるので行程的にキリが良かったからだ。それが今回の遍路、最後で最大のきつい参道だとは知る由もなかった。30分位は雑木林の急な山斜面をひたすら登って行く。何処からか読経の声が森に響き渡る。鬱蒼とした木立ちの中を抜けると、眼前には迫力ある岸壁がそそり立つ。その岩璧にめり込むように寺が建っている。中国かチベットにこんな風景がなかっただろうか? 

山岳霊場というのは、どうしてこうも難しい場所に作るのだろう…まさに深山幽谷だ。きついが空気はいいし気持ちはいい。最後の札所とあって何処か気分も高揚してる。R親父も健脚なのでしっかりついて来られてる。

岩屋寺には、岩壁に長さ10m位の梯子が掛けてあり、壁面に横穴のようになった祠(法華千人堂)がある。ここをR親父は登り始める。そういう人は、その日、回りにおられたお遍路の方にはいなかった。全くいやはやだ。もちろん私も登ったが…。

最後の参拝を終えると、達成感もあるのだが、この旅が終わってしまう寂しさの方が強かった。「ああ…、もう、巡礼の旅は終わりなのか…」可能ならば、このR親父と、もう何処までも果てしなく巡礼の旅を続けたい気分だった。

 

 「◯◯、(私の名前)これはホウノキだよ、こっちはトチノキ、ここのは大きいね…」

R親父は、私の名前を呼び、帰りの参道の見事な樹々の名前を教えてくれる。私はただ、ひたすら感謝だった。花や樹々の名前や仏閣に詳しいR親父を素直にカッコイイと思う。自分はR氏位の年になった時、そんな風にカッコ良くなれたらいいなと思う。スゴク、心もとないけれど…。

             
              最後の奇跡


最後のお寺の参拝を終わって、一つだけ、心残りな事があった。それは、R親父との2人の画像を一度も撮ってない事だ。R親父も私も画像撮ることは好きだが互いに自分が写るのは嫌いというタイプ。2人を撮るのは誰かに依頼するか、セルフタイマーで撮るしかない。その機会は、まぁ~いつかあるだろうと思っていたら、遍路中に他の方に依頼するタイミングは以外と少なく、また、全体、先を急ぐ旅だったので、そういう機を逸した。それに私は、昨日からデジカメ充電切れで完全にアウトだ。

「やれやれ、まぁ~、しょうがないか~、しかしチョット残念だったなぁ…」最後の札所、岩屋寺の長い帰りの参拝道が、もう、あと数メートルで、終わろうとしたその時だった。

 「あのう…、御2人の写真を撮らせて頂きませんか~」

落ち着いた感じの、人目で判る良い感じのお若い女性の方が、並んで歩いてた私とR親父を見て、向かい側から、そう話かけて来た。私は一瞬何が起こったか判らなかった。そういう訳でその素敵な方から、これまたニコンの凄くいいカメラで、私たちの遍路姿2ショット、背景を変えて見事に数枚写して頂いた。

私は、とっさに閃き、彼女を少し後追いしながら、「もし、ネットやっておられるなら、良かったらその画像、メールで送ってもらえないでしょうか?」と、お願いすると、あっさり快諾して頂いた。嬉々としてメールアドレスのメモを彼女さんに渡した。そうやって、後日、見事な2ショット記念画像が送って来た。

彼女、Iさんは、奈良県在住の方で、「あいよっこの旅ログ」というブログをお持ち。旅とカメラがお好きな優しい方だ。私共のことが、彼女のブログの9月1日に少し登場する。(私たちが旅先で知り合ったことになってるが、まぁ~そんなものデス)

Iさんは、その後、お遍路さんの画像はそんなに撮っておられないご様子。どうして私達2人を撮る気になられたのか? (私の念が彼女を動かした?)それは判らないのだが、とにかくこうやって、全く信じられない流れで、一生の記念になりそうな見事な2ショット画像が手に入った。何か良く判らないけれどひたすら感謝!である。Iさん見てますかぁ~、その節は本当にありがとうございました! 深く感謝致します!

          

          さらば、四国!そして感謝!


最後の参拝を終えた私達は、一路松山市に向かった。R氏はここから四国を横断する高速道路で土日を利用し東京へ。私はフェリーで広島へ出て九州へ戻る予定だ。

三坂峠という所から下り坂を疾走しながら松山市内へ入る。R親父とは、車止めやすい市内の大きなスーバーの駐車場で、ガッツリ握手し「ありがとうございました!」と言って別れた。「あいよ~、じゃね…」R親父は心なしか(テレ臭いのか)ややぶっきらぼうに応える。 互いにもう振り返らない。いや、私は振り返ったと思う。が、もう、見慣れたスズキエヴリーはそこには無かった。「Rさん…感謝!」しぜんと合掌する自分が居た。

時刻は午後3時前位か、相変わらずの真夏の様な日射しが照りつける中、場所の見当がつかないまま、いきなり歩き遍路になった。「さて、ここは一体、市のどの辺りなのだ?」ひとまず、JR松山駅があるであろう北を目指して歩く。途中にコンビニがあったので、涼みがてら道路地図を物色し、まず今、自分が居る場所を把握しようとしてた。

そうすると、店員さんが、じいと私を見つめ、「何かお困りですか?…」と、声を掛けて頂く。そうなのだ、私はまだ遍路姿。菅笠を日除けに被っている。金剛杖も持ってる。そして白装束。何処から見ても御遍路さんだ。急に何処かのスーパーに駐車したので、自分の居場所が判らない。異星からワープして来た宇宙人の気持ちだ。「アノ、ココハドコデスカ?」と聞くのはサスガに控えて「JR松山駅に行きたいのですが、駅はどちらの方でしょう?」と尋ねる。

私よりほんのちょっと年上に見えたその店員さんは、ものすご~く、丁寧に紙に地図を書いて、松山駅間までの道を教えて頂いた。遍路の方に四国の方々は「御接待」という無償の奉仕をするのが習わしなのだ。それが功徳になるらしい。自分がそうとは気付かないうちに、私は「御接待」を受けていたのだ。お陰様でその地図をもとに松山駅を目指す。けっこう遠い。

途中、伊予鉄道の伊予立花駅に辿りつき、電車で松山駅を目指すことにする。切符売リ場のおばさんに、松山駅までの200円だったかのお金を払おうとすると、受け取ってもらえない。「これは御接待させて下さい」と言われお金を戻される。ひたすら感謝し、ホームで待ってると、先程のおばさんは、冷たい飲み物を2つも持って来て私に渡す。

「わぁ~ここまで、されなくてもよろしいですよ~」とさすがに私は言ったのだが、御接待を断るものよくないようだ。それに実は幾ら水分を摂ってもすぐ喉が乾く程の暑さだったのだ。深く深く感謝し、御遍路さんがお返しにするという自分が持つ納札を、おばさんに進呈した。おばさんは、もう八回、八十八ヶ所を廻ったそう。遍路の大先達なのだ。四国のホスピタリー精神にひたすら感動しながら午後遅いフェリーで四国を去る。

           

           フェリーのデッキにて

 

夏の終わりの午後、広島県呉市に向かうフェリーには人はそう多くなく、私は後方デッキに一人出て、遠ざかり、見えなくなる四国を、何時までも、何時までも…見ていた。さらば、四国! 感謝、四国!

 

Rさんは、もう、高速に乗っただろうか…。晩夏の夕日が私の右側を照らし潮風が舞う。何となく何処からか吉田拓郎の「落陽」が聞こえなくもないシーンだ。(私の中では別の楽曲だったが…)

「お遍路の方ですか?」突然、声を掛けられた。

側にいるのは人なつっこい、元気でしっかりした感じの青年だった。「自分も行って来たのですよ、バイクで廻ってるんです。今回は70番(あたりだったと思う)まで廻って来ました」

私は、聞かれるまま、素直にこれまでの経緯をこの若い彼に話した。突然誘われたこと、半分廻って来たこと、遍路初めてであること、感動したこと等…。

彼は、呉市に住んでいて旅が好きで、四国遍路は仕事である保育士の休みを利用してずっと参拝しているとのことだ。「旅に出て色んな人と話すのが好きなんですよ」

快活で屈託のない彼は、話の流れで判ったのだが、夢があるそうで、それはJICA(ジャイカ=国際協力機構)に参加することだそう。既に昨年(だったと記憶する)、申し込んだのだが、健康面で少しひっかかりあえなく見送ったらしい。今年は、健康面も回復してるし仕事的にも一段落しそうなので再び挑戦するそうだ。

 

彼に限ったことではないが、遍路中に出会う若者は皆、私から見ると、もの凄く真摯でひたむきで良い人が多かった。どうしてかは判らないが。

私は素直に羨ましかった。20代にて明確なビジョンを持ち地球的な視野を持とうとしている彼が。それにひきかえ20代の頃も現在も、相も変わらず何をどうしたいのか?したくないのか?イマイチ判らず彷徨してる自分はまったくやれやれだ。

「…で、貴方はどうするのですか…」そういう無言の問いを、その濁りのない瞳の青年から突きつけられたような気がした。当たり前だが答は自分で見い出すしかない。自問しながら生きるしかないのだ。青年よ、ありがとう。貴君から何かを教えて貰った気がするよ。そして貴君の人生に光あらんことを!「大丈夫、君ならきっとうまく行くよ!」黄昏の呉港で、そう言って彼と握手して別れた。

 

 

 迷故三界城

 悟故十万空

 本来無東西

 何処有南北

 

 

参考:)四国遍路マップ

 

 

 

以下、最後の遍路画像はスライドショー、イメージBGMとともに楽しんで頂けたら幸いです。車にはラジオのみで特に音楽はなかったのだけど、今回の四国遍路、個人的イメージBGMは、

 

        Gladiator - Now We Are Free  か、

 

       

 

1、上のリンクをクリック。

2、Yutubeを機動させ、画面をHPに戻し、

2、下のスライドショー、右下、画面拡大アイコンをクリック。

3、画面右下端の矢印をクリックし、スライドショーを始める。

うまく行けば、いい感じになるハズデス(笑)。 

 

遍路から帰ってもう2ヶ月が経とうとしている。あの猛暑の夏が夢のようだ。暑くて苦しかったことが妙に懐かしい。R氏とはその後もメールをやりとりしてる。あたりまえだが遍路に行ったからと言ってその後の生活が激変する訳ではない。相変わらずの田舎の日々を送っている。しかし、体の一部は金剛杖を持ち、参道を歩く息づかい、読経が自らの体の中を共振する感覚を忘れてはいない。


そもそも全ての発端はR氏との出会いのお陰だ。いくら感謝してもしきれない。明日にでも私の名◯◯を呼ばれ、「さぁ~て、◯◯、46番、行こうか…」言われそうだ…。私の中の巡礼の旅は今でも続いてる。(終)

 

 

四国遍路覚書、読んで頂きありがとうございました!

皆さんに良い事がありますように…!

最後にこの惑星地球でジンセイを旅する全ての人へ、この曲を…。 

 

 

 

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(500MB/465MB)

 

 

 

 

 

 

 

 

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