それを人は求めているのでは…?

「小さな共同体」試論。


地元佐世保出身の小説家のひとり、村上龍の著作に『人生に於ける成功者の定義』(NHK出版、2004年)という本がある。文字通り、『人生に於ける成功者の定義』について、氏がそれまでの既成イメージに拘らず、新しい定義と条件の仮説を立て、それに沿って内容が展開していく本だ。

私が目に留まったのは、氏が言う成功者のイメージではなく、その条件の中に、「小さな共同体」という項目を見つけたからだ。私はこの「小さな共同体」というのは、これからの時代の人生の重要なキーワードのひとつではないか?と個人的に思った。私自身がとても気になるので、これについて考察を試みて見る。


皆さんの生活をみればお判りの通り、一部の農山村漁村地帯に住んでいる人々以外は、現在、この日本で、「地域共同体」というのは、ほぼ消滅していると思う。都市に住んでいるとマンションの自治会や町内から町会費請求や役員の順番が回ってくることはある。

 

あるにせよ、それらが、年に何回も地域共同体であることへの認識を強めるようなイベントを要求する訳ではない。親の代からの、地域への繋がりがある訳ではない。そこの住民で学校に行くような子供がいる家庭だと、子供を通じて地域社会と繋がりが出来るということはある。

しかし、当たり前だが、全ての住民が家庭持ちで、子供がいる訳ではない。子供がいない夫婦、母子家庭 父子家庭 独身の男性、単身赴任 独身女性、お年寄りだけ、或はお年寄りの一人暮らし。同棲しているカップル。友人とシェアして住んでいる…その他実に様々だ。子供などがいなかったら、地域との繋がりなど通常皆無である。

 

そして、もはや、そもそも結婚など選択しない人が世間には一杯。私もそうデスガ…。(このあたりがまず、一部の農山村漁村から出た事ない人は想像出来ない。その農山村では、ライフスタイルの多様性を知る機会など、まずないからだ)

昭和の時代の会社は、その規模に関係なく、終身雇用が大前提で、仕事の後も会社の同僚たちとの付き合いがあり、休日はお得意先とのゴルフ接待?というような、会社という共同体の拘束力のようなものがあった。その反面、会社は終身面倒を見る体力もあった。

 

しかし、平成も既に20年過ぎ、長い不況が続く現在、会社はとっくに共同体ではなく、人は会社そのものを維持させる為の道具にすぎなく、非正規雇用が主流。人材を育てるとか終身雇用とかいう夢のような事をほざく会社は殆どなくなった。先のことなど何ひとつわからない時代、会社の体力が落ち、そんな余裕がなくなったからだと思う。一日の大半を過ごす会社や地域で、その共同体は形骸化している。

では、最後の頼みは家族、家庭? 米国ハリウッド製の映画を見ると、SFであれ、アクションであれ、結局最後は家族の愛に収束して行くのに食傷気味の反応を示す人も多いかもしれない。温かで幸福な家族を持たれておられる方達も多いかもですが、前述のように多様なライフスタイルがある昨今、家族を幸福の絶対条件にするのは無理がある、と思う。

そうなった今、生き方、有り様のロールモデルがない時代とも言える。昭和までの時代は何となく、父や親戚のおじさんなどから言われるれるままに、身の振る舞いなどをやっておけば、何とかなった時代でもあった。今のこの時代に、父の考えも親戚のおじさんの考えも、まったく通用しない。

村上龍はそこで、このように述べている。
「どういう風に変化するのか誰にもわからない。だが、家庭、家族を作れなければ幸福はないというような考え方は希薄になって行くべきだろう。必要なのはお互いに信頼出来て、相談出来て、しかもその中で癒される小さな共同体、のようなものではないだろうか。それは結婚という形を取らず共に生きる男女かもしれないし、たとえば NPOなどで共にした仲間かもしれないし、昔からの友人同士かもしれない。」(本書P13)

今日の通信機器の発達は凄まじいものがある、携帯の域を越えた端末で、世界中と繋がれ、自ら情報発信出来る時代となった。そういう中、いつしか端末を片時も放さず、メールチェク、或はメールを送り続けていくライフスタイルを選択していく行動の底辺には、無意識にせよ、誰もがこの「お互いに信頼出来て、相談出来て、しかもその中で癒される小さな共同体」を求めていることの反映があるのではないだろうか…、と私は仮説を立てる。


誰かと繋がっている事を確認したい。帰属意識を落ち着かせたい。人は還るべきホントウの故郷を探しているのかもれない。それはたぶん巨大組織の共同体ではなく互いの顔がよく見える小さなものなのだと思う。毎週木曜のイタリア語のスクールの仲間かもしれないし、ミクシーのコアなサイトのコミュニティかもしれない、或はアヤシイ新興宗教がそれを満たす場合も大いにあり得るだろう。


人はそれを求めて、今日もネットの海に、メールという小石を投げる、のかもしれない。

   「 ハロー、応答せよ…、私は、今、ここに、 いる 」

 本日も御訪問、ありがとうございました!良い事がありますように…。

 

 

 

コメント: 6
  • #6

    planetary-n (火曜日, 06 7月 2010 01:47)


    ラフィキさん、ガッツリのコメントまことにありがとうございます!

    まずこの文章は、最初に断ってありますように、試論です。未完成な考察です。私はブログというものは、完成された文章にこした事はないですが、そうでもなくていいと考えます。思考途中の文章走り書きでも良いと考えます。理由は、ブログとは、基本、自由で、そのようなものでも、何でもいいのである、という認識を持っているからです。

    「書物を読んだら自分のものに消化して、血なり肉として、自分の方針を表現して欲しい。如何だろうか。」

    私は村上龍の本を読み、とあることに興味を持ち、一つの仮説を立てました。これは、ラフィキさんの「書物を読んだら自分のものに消化して、血なり肉として、自分の方針を表現して欲しい」に、ほぼ、当てはまるのでは?と思いますが、如何でしょうか? 確かに「方針」が「仮説」ではありますが…。

    「そこで何をどうしたいの・・。」
    可能であれば同じ価値観の人々と共に人生を生きて行こうとしたいのだと思います。
    
「喚いても叫んでも、どうしようもない時代に入っているのでは無いですか」
    さて、それは如何でしょう…。確かに今はかつて経験したことのない混沌とした時代だと思います。しかし夜明け前が最も暗いという喩えもあります。一見どうしようもない時代かもしれませんが、よくよく観れば、良い事もたくさん出て来ている時代だとも云えると思います。少なくとも私はそう思いたいです。

    例えば、今の時代は昭和の時代は隠蔽されて判らなかった汚職や組織内でのごまかしなどが、すぐバレる時代になりました。それらを隠すことに罪悪感を感じる時代になったからだと思います。これは少なくとも、バレなかった昭和の時代より、良くなっていると感じます。そういう例は、探せばもっとあると思います。自分が何に意識して世界を観ようとするかによって、世界の見え方は違ってくるのでは?と思います。

    百姓が一番利己的かどうかは判りませんが、確かに今までのお百姓さん、農家の方は、そういう所があったかと思います。しかし、だからといって、これからもそうとは全く限らないと思います。現にこれまでのそういうやり方でここに来て、行き詰まって来ているのですから。

    機械に関して、シェアするという考えは、これまでの農家の方々にはなかったと思います。しかし、今、取り組もうとしている若い方々の中には、世界中の有機農業を学んだ人とかもいます。かつての利己的な人々とは全く視野も考え方も違うと思います。若い人たちは自然とシェアする事を知っています。幸福感は単体ではなく関係性の中にこそあることを、もう、直感として知っているのだと思います。その人たちが一つの希望ですね。

    現に私たちの地域でも、田圃の「畦塗り機械」というのがあるのですが、それは皆で購入し共同で使っています。ほんの少しずつですが、変わって来つつはあるのです。少しでも良くなった事を認めて行きたいところです。

    この試論には当然続きが必要で、それは、「では、未だ共同体が残っている地域というのは今どうなっているのか?」これこそ私のいる立場なのですが、早晩この考察がなされる必要がある訳です。そうと感じているのですが、この共同体をきちんとした文章で、それ以外の方に判りやすく説明するのは、裏を取る作業なども必要なのです。少し時間がかかるのであります。そういった途中です。

    シッカリ、喰いついて頂き感謝します。このブログを書いた甲斐があったというものです。ありがとうございました!

  • #5

    ラフィキ (月曜日, 05 7月 2010 14:15)

    そこで何をどうしたいの・・。
    喚いても叫んでも、どうしようもない時代に入っているのでは無いですか。人の言っている事で共鳴して、今の生活圏に生かせるのなら良いだろうが・・。書物を読んだら自分のものに消化して、血なり肉として、自分の方針を表現して欲しい。如何だろうか。
    百姓ほど利己的な人種はいない・・と、爺は何時もそう思ってきた。だから共同作業に誤魔化されて、・・らしく見せてきたのでは無いだろうか。
    政府からは選挙の時だけ飴玉を貰い・・・あとは最低の生活圏の中にいる。いや、その中で生き続けてきたように思う。
    何故、利己か。だから農機具屋は儲かるんだ。だから政府の言いなりになって来たのでは無かろうか。
    農家は貧乏であっても、お金持ちであっても、利己主義である。そして競って身分相応を忘れる。田植機を考えてみれば1年のうちで何日使うのだ。なのに誰もが買う。時間が経てば壊れる。また買う。残るのは借金の山。どうだろうか。爺も小学生の時から学校休んで田植えをやってきた。それは物凄い疲労だった。子どもでも夜には腰が伸びない程だった。だから田植機に目が行くのも無理はない。でも何処でも高額な機械が必要であろうか。この辺にするよ。怒られそうだから・・。

  • #4

    planetary-n (金曜日, 25 6月 2010 19:00)

    amber クン、いつも無視出来ない内容のコメント、まことにありがとう。

    そうですね、「べーシックインカム」ですネ。既に書店ではこの方面の著作も何冊か有るようデス。当コラムでも [遊星年代記] 内、「御橋少年1968」(2月11日のブログ)のコメント欄にて、一度、すでに登場しました。

    この考えが実際に普及すると本当に素敵だろうなぁ〜と私は思っています。みんなが最小限の保証を与えられるとしたら、皆好きなことやれば良いと思いますね〜。こういう風に言うと決まって、先公の手下のような輩が『皆が好きな事し始めたら、世界が滅茶苦茶になりまぁ〜す!」とか言い出すんだよね〜(笑)バ〜カ、そうは決してならないものなのさぁ〜。

    そういう状態になると皆、自分の中のルールみたいなものに従い始めるものなのだと思います。何もしたくない人はひたすら寝ていればいいわけです。(森田療法にはそういうのがあるそうだ)ひたすら好きなだけ寝れば、三年寝太郎ではないが、そのうちきっと何かしたくなるものデス。

    全ては進化の過程なのだと思います。大切なのは、他者の批判ではなく、「…では、私はそこで、どう選択するのか…どうしたいのか…?」のみが重要なのかもしれない、と個人的には思っています。

    貴重なコメントどうも感謝です。

  • #3

    amber (金曜日, 25 6月 2010 10:21)

    いわゆる「ベーシックインカム」ってやつだね。
    生存できる最低限の保証を与えて、後はお金が好きな人はお金を稼ぐもよし、社会に何らかの形で貢献するもよし、自分の好きな分野(芸術とか科学とか)で活躍するもよし。
    「スタートレック ネクストジェネレーション」の世界では「通貨」という概念はとっくに消えて、正にそういう社会になっている。
    弱肉強食の資本主義社会なんて、野生動物の社会とちっとも変わらないじゃないか、自称「万物の霊長」がそれでいいのかよ、と思う。

  • #2

    planetary-n (木曜日, 24 6月 2010 23:13)

    amber クン 内容深いコメントをまことに!ありがとうございます。

    「これからは、仕事が取れたらサッと編成し、終わったらサッと解散できるようなフレキシビリティが求められると思う。そのためには会社という境界を横断する共同体という概念が重要になってくる。」という意見はとても共感出来ました。

    仕事に限らず、あるプロジェクトでもイベントでも、毎回そのつどの、実行委員会のようなものが人を集い、主旨に賛同する人が集まる。終了後解散。そういういうのは今の時代にあってると思うね。それこそネットで呼びかけるとかね。

    資本主義社会である以上、競争原理社会から免れ得ないのだけど、もう皆、競争することに意味を見い出してないのでは?と思う。資本主義、物資主義がもうすぐ終わりを迎える事を、ユングのいう、私たちの集合無意識は既に察知?或は望んでいるのかも知れないね。

    だって貨幣経済が終焉を迎え、お金がいらない世界って素敵じゃないかい? 『モモ』を産んだ作家、ミヒャエル・エンデのお金に対する問いかけ、そこで生まれた地域通貨の考えも、お金のシステムに対する変革のひとつだと思う。(河邑厚徳+グループ現代『エンデの遺言』NHK出版、2000年)

    あれ? 共同体がテーマだったのだが、つい、お金になってしまった(笑)。まぁ〜いいか!この共同体の考察は、また別の角度からやって見たいと思いマス。

  • #1

    amber (木曜日, 24 6月 2010 18:48)

    そもそも「終身雇用制」は高度成長で熱に浮かされていた時代の熱病みたいなものなんだよね。
    定時に出勤してただ与えられた仕事を淡々と消化して定時で帰宅する、今時そんな会社は官僚の天下り先ぐらいのものだ。
    アメリカにはそんな概念はないし、会社の調子が悪くなれば「レイ・オフ」は日常茶飯事、調子が悪くなくても役に立たないと判断されれば即クビにされる、競争社会なんだな。
    日本もそうなりつつある。
    (もし「お金持ちになること」が幸せになることだとしたら)村上龍は「誰もが幸せになれる時代は終わった」と言っているね。
    ゆとり教育で極力競争することを避けて教育を受けた世代が、いきなり競争のまっただ中に放り込まれて、苦労しているというか、混乱している。

    これからは、仕事が取れたらサッと編成し、終わったらサッと解散できるようなフレキシビリティが求められると思う。
    そのためには会社という境界を横断する共同体という概念が重要になってくる。